しとしとと・・・・・・雨が降る。
天上から降る雨は、地上へと降りて。
恵みの、雨となる。
紫陽花(あじさい)の葉を濡らして、葉の上の蝸牛(かたつむり)はその雨を身体一杯に受けようと、角を精一杯出している。
今は水無月。
1年でもっとも降水量が高くなる、月。
「止まないね・・・。」
窓の外で降りしきる雨を眺めて、不二は呟いた。
机の上に書類を一杯に並べて手塚は言う。
「そうだな。」
「やだね、雨。」
「そうだな。」
「・・・・・・・・・・・・・さっきからそればっかりじゃない。」
少しため息混じりに言って、不二は後ろを振り向く。
「雨の日は・・・・・・嫌だな。手塚は?」
「練習が出来なくなるからな。」
「ふふ、君はいつでもテニス馬鹿だよ。」
“馬鹿”と言う言葉に反応して、少し額にしわを寄せる。
そんな手塚を見つめて、不二は笑みを深めた。そして、ゆっくりとまぶたを閉じる。
長い睫毛が、茶色の瞳を、隠す。
不二はさ―――――なぁんか“兔”みたい。
だってさ、なんでも出来るけどいっつも一人じゃん?
にこにこ笑ってて、人当たり良いけどさ。
人を寄せ付けない空気を持ってるよね。
純粋な英二の意見に、思わず言葉を失った。
鋭い所をつかれて、思わず戸惑ってしまった。
不二は・・・・・孤独なんだね。
孤独?僕が・・・・・・・孤独?
知ってる?兔ってね、団体で行動してるでしょ?生活してるでしょ?
だからね。
寂しすぎると・・・・・・死んじゃうんだよ?
不二は、死んじゃうかも。
どうして?
だって、一人だもの。
寂しすぎて、きっと死んじゃう。
僕は、そんなに弱い人間じゃ、ない。
誰か、側にいてくれる人・・・・・早く見つかると、良いね。
そう言って、英二は笑った。
真っ白で、純粋だからこそ、その言葉は・・・・重い。
いつまでも止まない雨に惑わされたのか。不二は手塚にその事を、話した。
「・・・・・・兔か。菊丸らしいな。」
「でしょ?流石の僕もちょっと驚いちゃったよ。」
口元に微笑を浮かべる。英二の言葉を思い出して、表情を思い出して。
心が、どこか温かくなるのを感じた。
「英二は、純粋だから。」
その台詞は、いかにも自分がそうでないと言っているように聞こえる。
自分は、真っ白でないと、言っているように・・・・・手塚には聞こえた。
「兔は、寂しいと死ぬって英二は言ってた。」
「あぁ。」
そこまで言って、不二は口元の端を上げた。
そして自分の唇を近づける。
「だから・・・・手塚が癒してよ。」
けれど、唇は手塚には到達しない。
手に持たれている書類が、それを邪魔した。
「・・・・・・手伝う気がないなら、さっさと帰れ。」
「そんな怒らなくても良いのに。」
唇を尖らせて、不二は仕方なしに手塚の向かい側に腰を下ろした。
そして、書類に手を伸ばす。
「・・・・いつになったら、僕の思いに応えてくれるんだろうね、君は。」
「何度も言うようだが、その可能性は、ない。」
「ひどいな、そんなふうにはっきり言うなんて。」
憂い気に睫毛を下げる不二。
その声は、どこか哀愁を漂わせている。
「でも、絶対にあきらめない。」
腕を伸ばして、手塚の前髪に触れる。
肌には、触れない。
そんな態度が、どこかもどかしい。
茶色の瞳に宿るのは、どこか強い力。強い・・・・光。
まっすぐに見つめてくる瞳を、手塚は受けとめる。
圧倒される力にひるんでしまいそうになるが、視線は外さない。
ぶつかり合う、茶と黒。
整理した書類を整えて、とんとん。と揃える。
そして、机の横のかばんを取って立ちあがった。
「それじゃぁ、僕は帰るよ。君の仕事も終わった事だしね。」
「あ、あぁ。すまなかったな。」
「クス、どうせならありがとうって言ってよvv」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
困っている手塚を見て、くすくすと声を漏らす。
「冗談だよ。どういたしまして。」
にっこりと笑って、不二はそのまま扉へと向かった。
手塚に振り返ることなく。
下駄箱まで来て、不二は外へと視線を移した。
今だ雨は止んでいない。
傘は・・・・・・持ってきていない。
「やっぱり姉さんの言うとおりにすれば良かったかな。」
そんな独り言を漏らして、手のひらにに雨を浴びさせてみる。
そんなに雨は強くない。けれど、弱くもない。
手塚ならば持っていると思うが、不二は一緒に帰ろうとも思わない。
特に意味はないのだ。
ただ、なんとなく。
なんとなく、そう思っただけのこと。
不二はふぅ。とため息をつくと、降りしきる雨の中に一歩を踏み出した。
一人教室に残された手塚は、自分も帰り支度をする
書類を封筒に入れて、かばんの中へいれる
そして、手は止まった
先に行ってしまった、自分のことを置いていった不二の事を、思う
一緒に帰ろうというと思ってた矢先だったので、虚をつかれた
別に、構わないと思う
約束したわけではないし
けれど、この胸につかえる刺のようなものはなんだろう?
不二が、自分の事を好きだと言ったのは今月の初め
本当に、本当に突然思いを告げられた
どんなにきついことを言っても、どんなに冷たくあしらっても、不二の態度は変わらない
“絶対にあきらめない”
その態度が、言葉が、瞳が、語っている
その率直な思いに、戸惑っているのも事実
けれど、一緒にいて安堵感を感じているのも、また事実
手塚は、自分の本当の思いに気付けなくて困っていた
自分は何を望んでいるのか
本当はどうしたいのか
分からない
否、それは目を背けているだけ
その事も、本当は気付いていた
手塚は何を思ったか、急いで教室から走り去った
向かう場所は、ただ一つ
冷たい雨が髪を、肌を、身体を濡らす。
髪の毛がべったりと肌に張りついていて気持ち悪いから、手で払った。
しとしとと・・・・雨が降る。
不二に、降り注ぐ。
雨は・・嫌いだよ。寂しいもの。
そんな事を思う。
そして、灰色の空を見上げた。
上からあとからあとからとめ止めなく落ちてくる。
雨が目に入るのも気にせずに、空を睨んだ。
耳をすましても静かなもの。
何も聞こえない。
届かない。
届かないのは、音だけ?
「不二っ!!」
自分の名前を呼ばれて立ち止まった。
声のした方を振り向くと、そこには傘を持った手塚。
息を切らして不二を見ている。
「お前っ!!傘も持たずになにしてるんだ!」
手塚が自分の前に立っていることが信じられない様子で不二は呆然と立ち尽くした。
どうして・・・・・ここにいるの?
手塚の家は自分の帰る方向とは逆方向。
だからここにいることはありえない。でも、彼は今ここにいる。
「・・・・・傘忘れちゃって。」
あまり気にした様子もなく言う不二に、手塚はため息をついた。
「言えば良いだろう。」
「だって君の家逆方向でしょ?悪いかなぁって。」
「試合前に風邪でも引かれたらその方が悪い!」
その言葉を聞いて、不二は止まった。
あぁ・・・そうか・・・・試合、ね。
そうだよね。君が僕の心配をするのは僕が有力な戦力だから。
ほんのわずかな希望も絶たれて、気分は沈む一方。
期待したかいもなく、絶たれた・・・・・・望み。
可能性は無いといわれたばかりなのに無意識に思ってしまった自分が笑えた。
自分の中の黒い気持ちが、沸きだつ。
傘に入れようと、手塚は不二に近づく。
一歩を、踏み出そうとした・・・・・・
「来ないで。」
「・・・・・・・・・不二?」
「それ以上、近づかないで。優しくしないで。」
「お前、何言ってるんだ?」
「あのねぇ、君はただチームの心配してるだけだけど。君の事好きな僕から見たらそれは違う感覚でとらえちゃうの。優しくされると・・・・・・・・期待しちゃうよ。」
そうして不二は、手塚に背を向けた。
「望みは、無いんでしょ?だったら・・・・・構わないで。」
吐き捨てるように、不二は言った。視線は、地面へと。
前髪が表情を隠す。睫毛からぽたりぽたりと水滴が流れ落ちる。
手塚には、それが・・・・・涙のように見えた。
全身びしょぬれだから、それが雨なのか涙なのか判別できない。
表情が隠れているから、今どんな顔をしているかさえ分からない。
そして、不二の言ってる事が正しいから、それが手塚の足を止めさせた。
足が、鉛をつけたように重い
一歩が重くて、踏み出せない
不二の言っている事は間違って、いない
望みが無いといったのは自分。可能性が無いといったのもまた自分
それなのに、側にいるなんて・・・そんな事は許されない
友人で、仲間で、いることは許されない
自分の思いが・・・・分からない
踏み出してしまえば良い
手塚の中で、声が聞こえた
戻れなくても、構わない
そんな事・・・・・出来るわけ無いだろう?
では、どうする?
俺は、自分の気持ちに見てみぬ振りを続けるのか
本当は・・・・・好きなんだろう?
・・・・・・違う
違くない。自分の気持ちに嘘をついてるだけ
戸惑っている・・だけ
こんな感情・・・・異常だ
恋のあり方は人様々
他人は関係ない
重要なのは、自分が今何をしたいのかという事
何をすべきかと言う事
別に構わないだろう?
好きになった相手が、同姓だった。ただ、それだけの事
それに・・・・・・・
それに、びしょぬれの兔を、放っておけるのか?
そう、心の中の俺は、笑った。
囁きかける、甘い誘惑。
ぱしゃり。
水溜りを踏んだら、水が跳ねた。
不二に傘を差し出す。
足が、止まる。
選んだ選択は、前を見ること。自分に素直になる事。気持ちを・・・・・認めること。
「・・・・・・・残酷だよ、君は。」
まだ背を向けて、不二は言った。
雨に濡れたその身体はとても小さく見える。
弱くて、もろくて、今にも壊れてしまいそうで。
「兔は、一人だと死んでしまうんだろう?」
「?」
突然口を開いた手塚に疑問符を投げかけて、不二は振り向く。
「一緒に・・・・・いてやる。」
その一言だけで、気持ちを伝えるのは十分だった。
茶色の瞳は大きく見開かれて。
そして、くすっ。と笑った。
「“いたい”の間違いじゃないの?」
にっこりと、微笑んだ。立っているのは、いつもの不二。
「・・・・・・・うぬぼれるな。」
「ふふっ。照れなくても良いじゃない?愛の告白してくれたんだからvv」
「なっ・・・・ぁ・・愛だと!?」
「そうだよ。違うの?」
悠然と、不二は口の端を上げた。
一気に窮地に陥る手塚。
困っている手塚を見て、不二はますます楽しそうだ。
手塚に手を伸ばして、頬を撫でる。そして、ゆっくりと目を細めた。
「僕を追いかける為に、走ってきたの?息切れてたけど。」
「・・・・・・・・。」
沈黙は、肯定。それを確認してにっこり笑顔。
「必死な手塚の姿、なんだかはぐれた仲間を探している兔みたいだったよ?」
表情が、固まった。頬を引きつらせて不二を凝視する。
くすくすと楽しそうに笑って、不二は目をつむり自分の指を手塚のに絡ませた。
雨で濡れた指が、手塚の手のひらと、指を濡らす。
「恐がらないで。」
静かに紡がれる、声。
その言葉が、やけに耳に残った。
「寂しくなんかない。恐くなんかない。」
それは、自分に向かって言ってるのか。手塚に向かって言っているのか。
「もう雨は、嫌いじゃないよ。」
手塚に向かって、不二は微笑んだ。
雨に濡れた表情は、とても綺麗に、うつっていた。
水無月。
水が無い月、そう書いて「みなづき」と読む。
この時は終わる事が無いのではないかというぐらいに雨が降りつづける。
乾いた大地を、潤す。
恵みの雨によって。
神が地上に降り注がせた、贈り物。
けれど、乾いているのは大地だけではない。
人間も、また同じ。
乾いているのは、身体だけでない。
心とて、日々の疲れによって、生活によって、乾いている。
身体は、潤される。
では、心は。
潤す形は人それぞれ。
手塚の心を潤したのは、不二が流したと思われる一粒の涙。
染みわたって、心に届いた。
不二の心を潤したのは、手塚の少しばかりの勇気と・・・熱き気持ち。
恵みの雨は、降り続ける。
潤いを与える。恵みを与える。
大地に、草木に、人間に。
今日も、また―――――――――――
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