― 浮気と気付かない振りの代償は ―
ガラリと開かれた扉の向こうに立っていた人物。
流れる美しい黒髪。
薄唇から漏れるのは熱い息。
ぽた・・・と、一粒汗が流れて、彼は顔を上げた。
私は目を見開く。
どうして?
長くて男らしい指が黒髪をかきあげる。
その姿は見惚れるもので。
黒曜石は私のことをまっすぐ、見た。
どうせ他の女のところにいたんでショ。
どうせまたその制服には女の香りがするんでショ。
なんでもお見通しなの。分かってる。
さっきまで何をしていたのか。
「・・・・・・・・・跡部から連絡もろて、鞄持ってきてん。」
まだ息は整わない。
そんなに、どうして、走って来てくれたの?
こんな焦った侑士の姿なんて見たことない。
いつも侑士は格好良くて、落ちついてて。
「おせーよ。」
「んな言うなや。これでも急いできたんやで?」
跡部も随分余計なことをしてくれる。
女にメールしてたとか言って、侑士の事呼んでくれたんじゃない。
・・・・・・・・・・っとに、素直じゃないんだから。
一言二言跡部と話した後、侑士は私の方を向いた。
漆黒の瞳に見つめられて、私は身体が硬直するのが分かる。
「・・・・・・・・・・平気か?」
「平気なわけねーだろ。ばぁか。」
「・・・・・・・・・・そうやな。」
「平気よ。」
跡部の気遣う台詞は私の中で素通りした。
否、素通りさせた。
私は
いつも気高く強くいなきゃいけないの。
跡部、あんたは私の顔に泥を塗るつもり?
「大丈夫。心配してくれてありがと。」
微かに微笑んで侑士の顔を見た。
未だに血は流れつづけて、ずきずきと右手は痛んだけれど。
だけれど私は私のプライドを選んだ。
あからさまに跡部は侑士の後ろで顔を嫌そうに歪めた。
私はそれを見ながらも微笑を絶やさない。
完璧なあんたに何が分かる。
全てを持ってるあんたに何が分かる。
「先生。」
「なんだ。」
「病院に行く前に、やることが。」
「はぁ?病院行け。」
「そうやで。何か思い当たる事があるんやったら俺やっとくし。」
「そう?ありがとう。手伝ってくれるの?」
今更こんな時だけ彼氏面?ふん。
だから私は嫌味たっぷりに笑ってやった。
「廊下に付いた血を拭くの(にっこり)」
++++++++
「っわー、べっとりついてるー。」
「・・・・・・・。」
私は足に雑巾を踏みつけて血の後をたどってゆく。
先生と跡部には止められたけど、私はそれを振り切って侑士と今ここにいる。
となりで侑士は私と自分の鞄を持って私の後に続いた。
「・・・・・・。」
「何?」
私は肩越しに振り向いた。
自分の心が冷えるのが分かる。
「その、傷。」
「うん。」
「どんな傷なん?」
なるほど。跡部は私の口から直接説明しろと。
それとも私の好きなようにして良いと、そういう事なのか。
「別にーぃ。ちょっとりんごの皮むいてたら手の平に刺しちゃって。」
「随分と嘘臭い嘘ついたもんやな。」
「嘘じゃないもん。」
「せやったらその膨大な血の量を説明してみぃ。」
指差した先は、床ではなく私の右手。
ヤバイ。もう赤く染まってるよ・・。くそ、あのやぶ医者め(きっと100%私のせいだ)
「これ?」
私は顔まで腕を上げると手の平に巻いてある赤く滲む包帯を見せた。
「そう、それや。」
どうしようか。
私はどうしたら良いだろうか。
言ってしまおうか。
否、それは気高くない。
「だから、りんごだって言うのに。」
「随分な不器用なやっちゃな。」
「すいませんね、不器用で。」
私は視線を前に戻すと足をひきずって血を拭く。
また歩を進め始めた。
道しるべが、消される。
「ヘンゼルとグレーテルみたい。」
「あ?」
「不機嫌だねぇ。久方ぶりに本命の彼女と話したって言うのに。」
本命って言ったのは嫌味。
だけどこんなに話したのは久しぶりだ。
嬉しいのと共にどうして良いのか正直分からない。
「私達、丁度二人だし。この血はずっと保健室に続いてる。」
「保健室がおかしの家の替わりなん?随分ゴシックやな。」
「侑士、この血見てどう思った?」
「・・・・・・・・・。」
「侑士、聞いてんの?」
いらいらしながら、また振り向く。
そこで私は足が凍りついた。
びりりと来る緊張と、いつも穏やかに見つめるその瞳が
真っ赤な怒りに染まっていたから。
「・・・・・・・・っ・・・。」
「何言ってんねん、お前。」
「・・・・・・・・・。」
「俺がこの血を見てどうおもたかて?」
「・・・・・・・・・侑・・・。」
「正直言って血の気が引いたわっ!!!!」
「・・・・・・・・・・。」
怒鳴りつけられて、少し返答に困る。
「心配して走って来たら"なんでもない"やって?ふざけんなや!そんな怪我しといてそないな嘘が通じると思ってんやないやろうなぁ!?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・。」
落ちつけ。
私は、いつも、気高く、つよ・・・
自分に暗示をかけようとしたら、侑士は私との距離を一気に縮めて私のことを見下ろした。
あと一歩踏みこめば私に触れる距離まで縮める。
「っ・・。」
「ほんまはなんでそうなったん、言うてみ?」
長い黒髪から覗く瞳に私は圧倒されて、それでも唇を噛みしめる。
「・・・・・・・・・・自分は他の女とよろしく楽しんでたのによく私にそんな事言えるね。」
「なんやて?」
「私鼻は利く方なの。甘くみないでよ。」
「・・・・・・・・。」
「侑士が何をしてたか知ってるんだから。」
「せやから?」
あっさりソレを認めた。
今私の目の前の侑士はいつもの侑士じゃない。
ぞくり。
背筋に冷たいものが走る。
無機質に、まるでただの石ころを見るような冷えてる目。
そんな目は決して私の前ではしなかったのに。
今そんな風に見るのはやっぱり冷えたってこと?
私の替わりが出来たってこと?
だったら私は潔く消えなきゃ。
人魚姫みたいに美しく泡になって消えれると思わない。
だけど
華が散る様に散りたい。
せめて。
「そうよ、だからこれで終わりにしてあげるね。」
告げた。
この言葉を告げるのがどんなに辛いか。
だけど、貴方にそんな目で見られることが
別れることより辛いだなんて。
「・・・・・・・・・・この血を拭いたらそれで終わりだよ?良いよね。」
「・・・・・・・・。」
何も言わないのは、是。
私はまた一歩、歩を進める。
血は雑巾によって綺麗にふき取られていって。
そうして、私が刺された教室の前まで来た。
教室に足を踏み込んで、血を拭く。
その間私達の中で言葉は交わされない。
私は結局最後まで駄目だった。
後で跡部に「ばーか。」と、言われるぐらい馬鹿だ。
なんかもう駄目だ。
侑士の気持ちさえ確かめる勇気さえなくて。
侑士が怒ったのは本当はなんでだとか聞く余裕なんてなくて。
今は、ただ。
この苦しみから解放されたかった。
ほろ苦いコーヒーを飲み込んだような心境だ。
きっと突っ込めば私の欲しい答えは返ってきただろうけど。
だけど
もう、疲れたよ。
ふと気がつけば血はあと一拭きするだけになっていた。
あと一拭きで終わる。
私は一歩を、踏み出した。
刹那、息が止まってすんでのところで足を止める。
後ろ髪を引かれる感触。
振り向けば、侑士が私の髪の毛を一房掴むと、じっ、と見つめていた。
「・・・・・・。」
何。なんなのよ。
行動が読めなくて目を見開いて止まる。
真白なその空間で黒い髪は良く栄えた。
対照的に、輝く白と黒の色。
見つめていたかと思うと、侑士はまるでいとおしいと思うかのように唇まで持って行って口付けた。
イトシイ
愛しいよ
「・・・・・・・っ・・・・・・。」
思わず聞こえた気がして身体を引く。
当然髪の毛は侑士の指からさらりと流れる。
侑士の瞳は虚ろ。
虚ろな瞳が上がって私の瞳とぶつかった。
そのまま、一歩、歩を進める。
私は後退した。
「なんで逃げんねん。」
「逃げるよ、そりゃ。」
「なんで。」
「だって今日の侑士おかし・・・。」
そこまで言って、ぐいと右手の手首を掴まれた。
瞬間、痛みが走る。
「・・・・・・・っ痛・・・!」
「やっぱり平気じゃないやんか。」
「・・・・・・・・・・平気だっ・・て。」
「嘘吐き。」
「・・・・・。」
まっすぐな黒曜石は深く、深淵で。
あまりにも深い闇に私は圧倒されて。
「恐い?」
見透かしたように侑士はいうものだから更に恐怖は増す。
ゆっくりと唇を手の平に口付けて。
そのままゆっくりと舌をはわす。
「・・・・・っ・・・・・・。」
ざらりとした感触が手に渡る。
滲む血を舐めるかのような行為は、いつもの侑士とは違う。
背徳的な行為のように思えた。
何よ。なんでそんなもどかしいことすんのさ。
「・・・・・・・・・侑士・・・止めてよ。」
「出血が酷いんやな。貫通してるん?」
「(なんで分かるのさっ!汗)・・・・・・今・・更・・・なによ。」
一度も触れたことないくせに。
今だって私に触れようとはしないくせに。
「・・・・・・・・・・触れたら・・・あかんねん。」
「・・・・・・・・は?」
ぽつりと呟いたその言葉に、耳を疑う。
ゆっくりと視線が私のほうへと移って、その瞳がすがるように私のことをみていた。
「・・・・・・・・・・意味わかんないよ。」
「せやな。意味・・・わからんわな。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・(なんなんだろう、なにがいいたいわけ?)」
良く分からない。
今になっても、決して私のことを触れようとしない侑士。
瞳は、まるですがるように私のことを見てる。
「俺のこと、信じられへん?」
「・・・・・・・・・。」
言えないよ。
今でも、
こんなに好きだなんて。
俯いてる私を、侑士がじ…と見る。
私は侑士の視線を感じているのに目を合わせることが出来なくて。
自然と
涙が一筋頬に流れた。
それ以上流れない露をふき取る事もせず。
瞬きを一度するともう一筋流れた。
それでも、目を合わせようとしない。
この涙は
私のプライドが崩れたという証だ。
侑士が私に対してそんな風に言うから。
そんな風に接するから。
その腕で何度他の女を抱いたの?
その唇で何度他の女に愛を囁いたの?
それを許せるほど私は大人じゃない。
「………………好き。」
「………………うん。」
瞳は、合わせない。
侑士はまるで分かっているかのように頷いた。
私は言いたかったのにずっと言い出せない言葉を吐いた。
露が私の頬を濡らす。塩水はしょっぱくて胸に染みたけれど、私はそんな事も感じない人形のようにただただ床を見ていた。
ふいに、私の前に現れた角張った男らしい指。
その指は私の頬に一瞬触れるか触れないかの距離まで近づいたかと思うと、すぐに、びくり。
と、震わせて遠ざかる。
私は顔を上げて侑士の事を見ると、今度は侑士が俯いていた。
緊張しているような、怯えているような。
何故そんな顔をするのよ。
「…………侑士…?」
「……………………俺は、触れたらあかんねん。」
なんだソレ。そんなん誰が決めたんだよ。
「……………………なんでよ。馬鹿じゃないの?」
「……………………せやな。だけどは俺にとって凄く眩しくて、眩しい、から。だから触ったらあかんねん。」
「その道理はどこでどう繋がったのさ。自分の彼女に触らない男がどこにいんのよ。」
「……………せやかて、まさかが俺の誘いに良い言うてくれるとおもてなかってん。」
なんだって?
私は、何も言わずに少し目を見開いて侑士を見た。
まるで叱られた子犬のように。
微かに黒髪が揺れるのを私は見逃さない。
雨に濡れて震える子犬のように、
その黒髪は揺れた。
私はなんて声をかけて良いのか分からなかったから、ただただ侑士を見ることしか能がなくて。
すると侑士はふいに顔をあげた。
唇が言葉を成して私に尋ねる。
「……………触っても?」
「当然でしょ。」
言ったら、眼鏡の奥の黒曜石は夜の中で光を指す。
真っ暗な闇の空に星が瞬いたみたいに色を成す。
その腕は
その指は
その躯は
私を力いっぱい抱き締めた。
肩に顔をうずめて、長い黒髪の毛先が頬をかすむ。
私は白い天井を眺めた。
嗚呼、凄く綺麗。
「……………ほんまはずっとこうやって抱き締めたかったんや。」
「なんでしなかったのよ。馬鹿ね。」
「……………さっき言ったやろ?は俺の光だから。汚してはいけない場所だから。」
「……………は、侑士は穢れてるの?」
「そうや、だからホントは触ったらあかんねん。」
唇を歪ませる。嘲笑の言葉を浴びせる。
だけれど
私の瞳は嬉しさに滲んでいた。
「………………もう遅いじゃん。」
「せやな。許してくれるん?」
「勿論。」
ぐいと髪の毛をひっぱって、私の指にからまる。
その髪を触ったのは今までで一度だけ。
疲れてしまった侑士をみかけて一度だけ恐る恐る髪に触れた。
意外にもその髪の毛は柔らかかった事を覚えてる。
瞳が合わさって自然と唇が重なった。
瞳をゆっくりと開けると侑士の綺麗な顔があって、胸がこそばゆい。
「は…えぇ匂いがするんやな。」
「え、そう?」
「うん。なんかつけてへんやろ?」
「付けるわけないじゃん。私が臭いのついたもん付けるの嫌なの知ってるくせに。」
「せやな…。」
「ま、侑士はいっつも違う匂いを躯に付けてるけどねー。」
「………………スンマセン。」
「良いよー?(にっこり)」
「(怒ってるし…)せやけど、ほんまにえぇ匂いや。」
ふんふんと犬のようにかぐから、私は思わず教育的指導として顔をべしと叩いた。
「いたっ…。」
「離れて、馬鹿犬。」
「(犬…?)……………なんでやろ。なんにもつけてないのに良い匂いがするんやもん。」
「ミステリー。」
にんまり笑ったら、一瞬侑士は呆けた顔をしたけれど
とても人間らしく私の大好きな笑顔で笑ってくれた。
右手の傷はずきずきと痛んで。
やっぱり血はにじみ出ていて。
私は侑士が思ってるほど良い女じゃなくて。
私は侑士が思ってるほど凄い女じゃなくて。
そう思っていたのに侑士にとっては光らしい。
私のような女に触れる事を躊躇して
怯えるように私を「光」だと断言してくれた。
貴方にとって、私は一体なんなのか。
貴方にとって、私はどうあるべきなのか。
その答、を、くれた。
私は私のままであれば良い。
他がどう思おうが侑士の中での光は私なのだから。
その誇りを胸に笑っていれば良かったのだ。
今は包帯はやはり白が良いと思う私だった。
今でも分からない。
侑士は少しその先を踏みこんだだけで、今も私に触れない。
前よりずっと優しくなって、前よりその瞳はとても優しいのに。
だけれど、分からなくても良いと思えるようになった。
一応危機を去った私達は保健室への道を歩く。
はよ病院いかな。と、侑士は私をせかして。
だけれど私の歩調はゆっくりだ。
そんな私を気遣うように、時々歩を止めて振りかえる。
少し
苛めてしまおうか。
「侑士。」
「なんやねん。ていうかもっとはよ歩かんと。」
「ちょっと来て(にっこり)」
「?」
てくてくと神妙な顔をしながら侑士は近づいて
私はゆっくりと冷たく微笑みながら侑士のネクタイを掴んで勢い良く引いた。
「っ!!」
当然の如く侑士は私側に倒れる。
だから私は嗤う。
「……………ねェ、許して欲しい?」
「……………・・。」
「良いよ、許してあげる。だけど私の手が治るまでは側にいてもらおうかなぁ?」
お前のせいなんだからてめーが責任を取れ。
と、言ってるが如く私は侑士を強迫した。
なのに、次の瞬間には私の表情が消えていた。
「仰せのとおりに。」
淡く不敵に嗤う侑士は
唇を月のように象って
酷く痛そうに笑ったのに、とても嬉しそうに笑った。
全てをそれで理解したわけじゃない。
微笑する侑士の瞳はいつも以上に穏やかで。
全てを理解したわけじゃない。
だけど
その表情を見て
この人は私に愛されたいのと同時に
自分を縛って欲しいのだと
ソウ、思った。
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長かった、ええ。長かったです。
冷たい侑士を書いてしまいました。うーん。
痛い系は大好きです。痛い侑士も大好き(この変態め)
長い話を書く体力がなくなってきた…、ぎゃーす。
まだ若いのにィ――――――――。
return
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